ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(後の
プラーサートトーン)と共同で
チェーターティラートを王にたてたが、チェーターティラートはシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。その後チェーターティラートの弟の
アーティッタヤウォンが王としてたてられたが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位に付くように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆(
ナコーンシータマラート、Ligor)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。長政は
1630年、
パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡。毒を塗られたのはカラーホームの密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子の
クン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、山田長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、
アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。
なお、日本の文学では、長政のタイ名を「オーヤー・セナピモック」、シーウォーラウォンあるいはチャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォンを「オーヤー・カラホム」とし、親しまれている。なお、長政が南部の王国の王となったと信ずる人もいるが、任命されたのは知事であり、正しくない。