東晋 wikipedia|無料辞書
◆ 概要
永嘉の乱により
洛陽が陥落、
懐帝が捕虜となり西晋は
316年(
建興4年)に事実上滅亡した。その際に西晋
琅邪王であった司馬睿は、江南の
建業(現在の南京)に逃れ、琅邪の豪族王氏出身の
王導の助力を得て
317年(
建武元年)に東晋を建国した。東晋は約100年、11代にわたり、
華北から逃れてきた北来の勢力と江南土着の豪族勢力との協力によって運営された。
当時江南(長江流域)は中原(黄河流域)と比較し人口が希薄な後進地域であり、
漢末には華北からの避難民により一時的な人口増加が見られるが、
三国時代に社会の安定を見ると華北からの流入者が帰還したことで
呉朝衰退の原因になった。東晋はこの経験より、華北からの避難民に対して初年を免税にするなど税制上の優遇措置を設け、積極的に流民の受け入れると同時に開墾奨励の政策を実施した結果、元来温暖な気候と水資源に恵まれた地域であったため、華北に対抗可能な経済力を有するまでに急速に発展した。
東晋中期には、一時的に華北統一を達成し
前秦苻堅の公称100万とも112万とも称される大軍の攻撃をうけるが、この戦いでは前秦軍を撃退している(
?水の戦い)。後には経済的反映と華北の政治的混乱を利用し中原奪回に着手、一時的に
桓温が洛陽を、
劉裕は長安と洛陽の二大旧都を占領したが、国力の不足と指揮者の政治的事情により、共に占領の恒久化には失敗、中国統一は達成されず、旧都もやがて北方民族の軍により奪回された。
東晋は都城と国境が近接していることより北方からの攻撃を受けることもあり、政権は不安定なものであった。
328年(
咸和3年)に発生した
蘇峻の乱に際しては、後にこれを平定するも、都城が炎上する事態も発生している。『晋書』
蘇峻伝によれば、反乱に際し百官が捕虜となり、都城は大規模な略奪を受け、士人・宮女らが衣服を剥がされて泣き叫ぶなどの惨状を呈し、「残酷無道」であったと記されている。その後も大規模な反乱が発生しており、
324年(
太寧2年)には土着勢力であった
王敦の反乱により都城が陥落、
399年(
隆安3年)には
孫恩が朝廷官人をも巻き込んだ
孫恩の乱を起こし、江南一帯に被害を与えている。
朝廷内部では西晋同様に、貴族階級が要職を独占し、中でも土着勢力出身である王氏、謝氏、桓氏など有力氏族が大きな勢力となった。その反面、宗室の司馬氏の求心力は低下し、土着勢力、西晋の亡命貴族が司馬氏を推戴する形式となっており、、皇帝権力は限定的なものであった。また
魏から帝位簒奪した司馬氏の歴史も皇室権威の低下につながった。
軍事面では、国防上の必要から都城周辺と荊州北部に二大駐屯地が設置され、一方を北府、一方を西府と称していた。
402年(
大亨元年)の
五斗米道の反乱鎮圧や、
417年(
義熙13年)の
後秦遠征の成功など経て共に政治的な強い影響力を有するようになり、政権内部での発言力が強まっていった。
◆東晋の皇帝